薩摩藩

薩摩は開国前から世界とつながっていた ― 歴史が語る鹿児島の国際性
江戸時代、日本は鎖国政策のもと、海外との直接的な交流が厳しく制限されていました。しかし、その中で例外的に“外の世界”と接点を持ち続けていた藩が存在します。それが、現在の鹿児島県を支配していた薩摩藩です。
薩摩藩は、単なる地方の大名ではありませんでした。外交・貿易・技術交流など、江戸時代とは思えないほどの“開かれた”視野を持ち、明治維新に先んじて近代化を実現した、極めて先進的な存在だったのです。
琉球王国を通じて築いた「裏外交」のネットワーク
その大きな鍵となったのが、1609年の「薩摩の琉球侵攻」です。薩摩藩は、当時独立王国だった琉球を事実上の支配下に置きます。しかし、表向きはあくまで琉球王国の独立を尊重し、清国(現在の中国)との朝貢貿易も続けさせました。
これにより、薩摩藩は幕府の目をかいくぐって中国や東南アジアとの間接的な交易ルートを維持。中国からの薬品・絹・陶磁器、東南アジアからの香料や貴金属など、貴重な物資を入手して藩の経済力を強化しました。
この仕組みはまさに“裏外交”ともいえるもので、他藩にはない国際的な視点と経済感覚を育てました。
世界最先端の技術を鹿児島に導入した島津斉彬
19世紀に入り、海外との接点はさらに強まります。
薩摩藩第11代藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)は、西洋文明に強い関心を持ち、藩の総力を挙げて近代産業の導入を進めました。
斉彬は鹿児島市内に仙巌園(せんがんえん)を造営し、その一角に尚古集成館という工場群を整備。ここでは、蒸気機関、反射炉(鉄を溶かして大砲を鋳造する施設)、ガラス製品、紡績機などが試作され、**「日本の近代工業の発祥地」**とまで称されました。
当時、日本全国を見ても、これほど早く本格的な西洋技術を取り入れた藩は他にありませんでした。
若者たちを海外へ ― 薩摩藩英国留学生の偉業
そして極めつけが、1865年に行われた薩摩藩英国留学生の密航です。
これは、幕府の許可を得ずに、薩摩藩が独断で19人の若者をイギリスへ派遣したという驚きのエピソードです。
この若者たちは、現在のロンドンやマンチェスターで法律・工学・軍事・語学を学び、帰国後は明治政府の要職や教育機関の創設者として活躍しました。
彼らが乗った船は「スチューデントシップ号」と呼ばれ、その偉業は今も語り継がれています。
薩英戦争と“敵”から“パートナー”へ
また、薩摩藩は1863年に**イギリスと戦争(薩英戦争)**を経験します。
鹿児島市が艦砲射撃を受けたこの衝突ののち、薩摩藩とイギリスはむしろ急速に関係を改善し、協力関係を築きました。
戦争をきっかけに学び、外交の重要性を認識した薩摩藩の姿勢は、その後の開国・維新の流れにおいても重要な示唆を与えました。
鹿児島に残る国際交流の“証”
現在の鹿児島市には、こうした薩摩藩の国際的な足跡を体感できるスポットが数多く残っています。
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仙巌園:島津斉彬の別邸であり、外国人との交流の舞台。美しい庭園と共に技術導入の歴史が学べます。
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尚古集成館:西洋技術の導入と工業化の過程を展示。産業遺産としても価値が高い施設です。
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スチューデントシップ記念碑:英国留学生の出航地点に建てられた記念碑で、現代の若者にも感動を与える場所です。
歴史を超えた“グローバルマインド”を体感する旅へ
薩摩藩の真のすごさは、単なる軍事力や経済力だけではなく、「時代を超えた柔軟な思考」と「世界に学ぶ意志」を持っていた点にあります。
海外との接触が禁じられた時代に、知識・技術・人材の育成という形で世界を見つめていた鹿児島。
その精神は、現代の国際社会の中でも通用する“本物のグローバルマインド”といえるでしょう。
鹿児島を旅する際には、ぜひこの国際的な側面にも目を向け、歴史の奥深さに触れてみてください。
